EPISODE 36受け継がれるもの
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あの後、結局、
遥ちゃんは終電ギリギリまで居座った。
異様なテンションでゲームや話に付き合わされ、
疲れ果てた俺たちは、
早々とベッドに沈んで――
目が覚めたのは、八時を過ぎてからだった。
そんな土曜日の朝。

身支度を整えてリビングに行くと、
むっつりと不機嫌そうな村崎さんが。
……え、俺、何かやらかした?
戸惑う俺に、
彼女はダイニングの方を指さした。

『 おはようございます――
爽やかな朝ですね 』
そこには、
朝からばっちり女装を決めて
モーニングティーを楽しむ
〝はじめちゃん〟がいた。
初対面の時と同じ、
ストレートのロングヘア。
白いシャツにブラウンのスカート、
そしてサイハイソックス。
……なるほど。
村崎さんの言いたいことはわかった。
ここは彼の管理するマンションの一室。
いつ、何をして過ごそうが自由だ。
でも――
『 ……わかります。
おふたりが仰りたいことは。
僕も決して本意ではないんですが、
遥ちゃんが―― 』

昨晩、創が遥ちゃんを駅まで送る道中。
『 ――お目付け役?
そんな必要ないよ、遥ちゃん。
それに、ふたりは…… 』
『 甘い!
貴方は未成年の男女を保護しているんです!
何か間違いがあって、
あんなことやこんなことが起こったら、
親御さんや社会に対して
どう責任を取るつもりですか! 』
( ……僕も未成年だし、
なんなら年下だけど…… )
『 大人が許しても私は許しません。
追及します、全てを賭けて。
いいんですか、小早川の娘を敵に回して。
脅迫上等、プライドも矜持も投げ売ってでも、
絶対に―― 』

『 ――というわけでして。
僕のことは、
トマトペーストの空き缶とでも思って、
お気になさらず…… 』
そう言って〝はじめちゃん〟は、
居心地悪そうに、
でもどこか高揚した表情で、
優雅なティータイムを続けた。
村崎さんは、
呆れ顔を浮かべ、部屋へ戻っていった。
そして取り残された俺。
――あの、女装の理由は……?

同日、午前十時頃。
椎は送迎車の中で俯いていた。
椿に会うため、
本家へ向かう車内。
軽いめまい。
それに、少しの頭痛。
――疲れている。
揺れで気分が悪くなり、
運転手に声を掛けて、
本家の数キロ手前で降りた。

郊外の道を歩く。
緑を吹き抜ける風に包まれて、
少しだけ気分が楽になった。
……今、本家に立ち入る危険も、
重々わかっている。
静音ちゃんと、律くん。
ふたりの未来を救いたい。
だけど、見通しのつかない現状。
突破口を見つけるための、
母との面会――
あまりにも重く、身に余る難題。
それでも、私にしかできないこと。

重い足取りで歩を進め、
ようやく本家に辿り着く。
深呼吸。
しっかりと背筋を伸ばして――

本家の広い庭園。
石畳の道に、コツ、コツとヒールの音が響く。
あの頃から、何も変わらない風景。
鯉の泳ぐ池に、苔むした灯籠。

――あのあたりで、
よくひとりで遊んだっけ。
庭園の飛び石を数えたり、
灯籠の裏に落書きをしたり。
……昔を懐かしむなんて。
感傷的になっている。
あの人と向き合ったとき、
私は、どんな感情を抱くのだろうか。

屋敷に入り、女中の妙子さんに会った。
彼女は看護師の経験を活かして、
母の生活を支えてくれている。
上品で柔らかな物腰と、
包み込むような優しい声色。
もし、この人がお母さんだったなら、
幸せに過ごせていたに違いない。
今、何歳なんだろう。
小さい頃から知っているけれど……
彼女と別れ、ひとり、離れに向かう。
塵ひとつない、磨き上げられた廊下を進み、
縁側に出た。

暖かな日差しの中、
そこに――母の姿があった。
うとうとしているのか、
近づいてもこちらに気付かない。
その表情は、穏やか……
というより、呆けているように見える。
白い肌はつややかで、驚くほど若々しい。
結われた長い髪も、よく整っていた。
容貌だけは、私が恐れた母のまま。
私が傍らに腰掛けると、
母はようやくこちらに気付き、
ゆっくりと顔を向けた。

『 ――椎? 』
やや掠れた、穏やかな声。
ほんの少し、口角を上げた微笑み。
柔らかく、力ない表情。
硝子玉のように透き通って、
焦点の揺れる瞳――
本当に、私を見ている?
『 椎……? 』
……私は何を望んでいたの?
いきり立って私を罵り、
手当たり次第に、物を投げ散らす母の姿?
わからない。
落ち着いている。
苦しそうには見えない。
だけど、今の母からは、
真実の椿の面影が失われている気がした。
憎い母。愛しい母。
冷えて固まった心が、どろどろと溶けていく。
整理したはずの感情が、ぐちゃぐちゃに乱れる。
――母が、私の言葉を待っている。
崩れそうになる心が、何とか理性を形作った。
『 ……具合は、どう? 』
声を絞り出す。
母は表情を変えず、
ぼうっとしたまま、短く頷いた。
居たたまれなくて、
私はすぐに本題を切り出した。
『 お母さん、聞きたいことがあるの 』
かつて、女中のハルさんに預け、
持ち出させたもの。
その中身について尋ねる。
誰かに聞かれないよう、
母の耳元へ顔を寄せ、小声で囁いた。

『 女中の、佐伯……ハル。
佐伯―― 』
母はぼんやりとした表情のまま、
その名前を繰り返し呟く。
忘却した過去を、
思い出そうとしている。
そんなふうに見えた。
――忘れるなんて、あるだろうか。
幽閉された椿にとって、
彼女は数少ない、
深く関わりのあった人のはず。
少女のように首を傾げる母の姿に、
私は耐えられなかった。

『 ――もう、いい。
お母さん、気にしないで 』
絶対に、忘れるはずのないこと。
それを忘れてしまったなら、
きっと、それほどまでに重かったんだ。
この感情は、
失望か、それとも――
震える指先。
爪が、腕に食い込む。
――許される?
許していいの、こんなことを。
意識と目的が、
少しずつ形を変えていく。
母の中から失われた〝椿〟が、
私の中へ入り込んだように感じた。
証言は得られなかった。
――けれど、もういい。

離れを出た私は、
酷い表情をしていたに違いない。
人の少ない時間でよかった。
辛うじて浮かび上がった理性が、
私を誰もいない応接室へと向かわせた。

戸を閉め、背を預けたまま泣く。
――会うべきじゃなかった。
お母さん、お母さん。
涙がとめどなく溢れる。
眠らせていた、
母への想いが、
これほど大きかったなんて。
自意識の外側で、
別の何かが膨れ上がっていく。
もはや引き返せないことを、
認めざるを得なかった。

上着の中で、端末が震える。
スマートフォンを取り出すと、
例の探偵からの電話だった。
ぼんやりと画面を見つめる。
私が〝椎〟を取り戻すより先に、
呼び出しは途切れた。
履歴から、彼に掛け直す。
『 ――椎です 』

『 ああ、今よろしいですか?
佐伯ハルの娘さんについて、
確認が取れた情報をお伝えしたいのですが 』
朗報。
重要なこと――のはずなのに、
私の心は踊らなかった。
『 ――詳しく聞かせてください 』

『 名前は、八幡桜子。
ハルさんが亡くなった後、
その遺言に従って、
祖父母を頼ったようです 』
『 その縁で、
祖母方の親戚筋にあたる八幡家に、
養子として迎えられて、今に至ると。
椎さん、何か思い当たることは? 』
『 ……いえ、何も。
初めて聞く名前です 』
『 そうですか。
彼女は静音さんと同じ高校に通っています。
一年生なので、後輩ですか 』
――!
それは……!
『 まさか、ですよね。
貸金庫の中身について、
彼女がどこまで知っているかは不明です。
こちらで、接触しましょうか? 』

『 いえ……慎重に動くべきでしょう。
まずは、私からお嬢様に伝えて―― 』
その時、部屋の外に人の気配を感じた。
『 一旦切ります。
こちらの指示なく、動かないように。
不通が続いたら、手筈通りに…… 』
ドアをノックする音。
通話を切り、端末を上着にしまう。
そして私は、
卓上に置かれたレターナイフへ、
静かに手を伸ばした。

日曜日の朝も忙しい。
お義母さんは、今朝早くに出かけた。
お義父さんも出張中。
朝食は用意してくれていたけど、
部活へ行くまでに、
弟たちの昼食と、
自分のお弁当を用意しなきゃいけない。
『 ――いい匂い。
姉ちゃん、お昼はもしかして? 』
ケンタがフライパンを覗き込む。
もう。
朝ごはんを食べたばかりなのに。
『 〝コレ〟だよ、好きでしょ? 』
ケンタは親指を立てて、
ご満悦の様子。
中学生になって、
身長も私を追い越したのに、
相変わらず子供なんだから。

『 多めに作ったけど、
つまみ食いしないでね。
ヒカルの分もちゃんと分けて、
洗い物も―― 』
外では引っ込み思案な私も、
家では第二のママさんだ。
ケンタとヒカル。
ふたりの弟は、
私が養女であることを知らない。

この家に引き取られて、
優しい義両親に育ててもらった。
弟たちもかわいい。
……たまに、生意気だけど。
友達もできた。
航くんと出会った。
野球部のマネージャーになった。
悩みがないわけじゃないけど、
幸せだと、胸を張れる日々。
それでも、
お母さんのことを忘れたことはない。

引き出しの中には、
写真さえ残さなかったお母さんの、
たったひとつの形見。
――貸金庫の鍵。
中身については、よくわからない。
だけど、
村崎先輩の家に関わるものだということは、
祖父母の話から何となく察していた。
奇妙な人生の巡り合わせ。
お母さんが守り抜いたもの。
引き継いでいく。
けれど、関わらない――
きっと、お母さんもそう望んでいる。
だけど、十六歳の夏。
村崎先輩が学校から姿を消して、
何かが動き出したような――
そんな予感を、
心のどこかで抱いていた。
