EPISODE 34春風過ぎて咲く桜
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平凡な高校生活は瞬く間に過ぎて、
進学はせず、両親の営む旅館を手伝う日々。

老舗といえば、聞こえはいいけれど。
再開発が進む中心街にあって、
今日まで百五十年以上の歴史を繋いできた、
私の実家、旅館《さえき屋》。
近隣にはビジネスホテルも増えて、
古びた旅館は、
お世辞にも繁盛しているとは言えなかった。
それでも、ひとり娘の私は、
この旅館を引き継いで、結婚して、子供に託して……
そんなふうに生きることに、
さほど疑問は抱いていなかった。

二十歳を過ぎた頃。
旅館に、ガラの悪い人たちが
度々押しかけてくるようになった。
私は知らなかったけれど、
数年前から、近隣の再開発計画に伴う
土地買収の打診が続いていたらしい。
両親がそれを断り続けているうちに、
ついに本格的な嫌がらせが始まった。
古いドラマや、お約束のコントでよく見るアレ。
つまりは、地上げだ。
執拗な訪問、脅し、騒乱、ゴミの投棄。
さらには、常連客に対する威圧行為まで。

警察に通報しても、根本的な解決には至らなかった。
細っていた客足は、さらに遠のいていく。
弱り切った父は、
ついに退去と土地の売却を受け入れた。
――受け入れざるを得なかった。
時代は移り変わる。
それでも、人生は続いていく。
旅館の看板と心中しても仕方ない。
両親は土地の売却代金として
まとまったお金を受け取り、
きっと老後は、不自由なく暮らせるだろう。
だけど、私は――

生業を失い、途方に暮れていた私に、
土地買収の代理人が、ある提案を持ちかけた。
『ハルさん、貴女は小さい頃から
この旅館で働いてきたのだろう?
よかったら、村崎の屋敷に勤めてみないか』
提示されたお給金は、相当のものだった。
今は、他にあてもない。
とりあえず、その話を受けてみることにした。
内心は複雑だったけど。
そうして、私は村崎の本家で働き始めた。

先輩の女中さんについて回りながら、
ひとつずつ仕事を教わっていく。
さすがは、地域を代表する資産家のお屋敷。
うちの旅館よりもずっと広くて、
豪華で、隅々まで手入れが行き届いている。
女中さんたちも、良家のお嬢さまばかり。
みんな品がよく、親切だった。
上司にあたる女中監督役の妙子さんは、
「二人の子持ちで、もう四十近いのよ」と自己紹介した。
とてもそうは見えない。
きっと本当は女子大生で、
私をからかっているんだろう。

規模の違いこそあれ、
和風建築の掃除や手入れは手慣れたもの。
物心ついた頃からやってきたことだから、
当たり前ではあるけれど。
他で働くより給金はずっといいし、
人間関係も悪くない。
……懐柔されているのかな。
私の実家と生業を奪ったのは、
この村崎家なのに。
それでも気がつけば、すっかり慣れて、
居心地のよささえ感じていた。
――ひとつの事柄を除いて。

屋敷を警備する黒服には、
ずっと違和感を覚えていた。
そして、それは間違っていなかった。
先輩の女中さんが、そっと耳打ちする。
『 あの人たちはヤクザ屋さんだから、
関わらないようにね 』
これは、後になって知ったことだけど。
彼らは笠間一家という裏社会組織の構成員で、
村崎家とは密接な協力関係にあるらしい。
なら、あの地上げ屋たちも――

そんなおっかない人たちとは、
明らかに一線を画す少年がいた。
いつも快活に笑い、
気軽に女中たちと談笑している。
『 ちゃんと食べてる?
貴方、どう見ても向いてないし、
転職した方が―― 』
『 そんなあ。
いっつもそうやってからかうんですから!
こう見えても僕は、剣道の達人で―― 』
サングラスに、黒いスーツ。
この子も、一応、
黒服なんだよね……?
私を見つけた少年は、隣に並んで歩き出した。

『 ハルさん、おはよう。
――ねえ、なんで
電話に出てくれなかったのー? 』
『 お母さんの病院に付き添ってたから。
また今度ね。
だから、ちょっと声を抑えて 』
私は、なぜか彼に気に入られていた。
人懐っこい笑顔を向ける少年。
名前は(自称)マサキ。
御年(自称)二十一歳。
『 必ず埋め合わせてよ。
ね、約束ね 』
向こうから、中年の黒服がこちらを睨んでいた。
それに気づいたマサキくんは、
ぱちん、とウインクして、走り去っていく。
『 ハルさん、今度はやらせてねー! 』
振り返りざまに、
とんでもない爆弾を落とす。
下ネタまで妙に無邪気で、怒る気にもなれなかった。

そうして、安穏と過ごしていた私にも、
転機が訪れようとしていた。
きっかけは、本家離れの主。
村崎の屋敷に勤めて、一年半。
私はまだ、
その離れに足を踏み入れたことはなかった。
それでも、噂には聞いていた。

村崎椿さん。
当時、二十歳そこそこの女子大生。
彼女の評判は、すこぶるよろしくなかった。
浪費に、夜遊び、男遊び。
音楽をかけて夜まで騒ぎ、
ふらりと出かけたと思えば、
日を跨いでも帰ってこない。
使用人に対する態度も酷かった。
そもそも、
まともに口を利かない。

機嫌が悪い時には、一方的に怒鳴りつける。
相手に非がなくても、揚げ足を取って騒ぎ立てる。
こんなふうなので、誰も離れには勤めたがらない。
担当になっても、
短期間で転属願いを出す者が後を絶たなかった。
それでも、誰かが担当しなくてはいけない。
要するに、貧乏くじ。
その順番が、ついに私に回ってきた。
――気が重い。
だけどその頃、
椿さんを取り巻く状況も、大きく変わっていた。
私が離れの担当になった時、
彼女はすでに軟禁状態。
当然、以前にも増して荒れていた。
黒服に詰め寄っては怒鳴り散らし、
手当たり次第に物を投げつける。
私は遠巻きに、
嵐が過ぎるのを待つしかなかった。

そんなある夜、
備品の点検漏れに気づいて、離れへ戻った。
そして、見てしまった。
――縁側にうずくまり、
ひとり嗚咽を漏らす彼女の姿を。
月光に照らされたその姿が、
儚げで、綺麗で。
私は、しばらく見惚れてしまった。

その後、彼女に見つかって、
怒鳴られたのは当然として。
そんな姿さえ、何だか愛らしく感じられた。
きっと彼女は、
寂しかったんだと思う。
両親を亡くして、ずっとひとりで暮らしてきた。
程度は違っても、私たちは似ている。
村崎家によって、
尊厳と将来を奪われた者同士。

私がぎこちなく笑顔を作ると、
彼女は自身の境遇への恨みつらみを、
一気に吐き出し始めた。
隣に腰掛け、
静かに頷きながら耳を傾ける。
いつもの覇気が薄れた、
頼りなげな横顔を眺めて、
美人は不幸も多いっていうけど――
なんて思いながら。
その夜から、
私たちはよく話すようになった。

それから半年ほど経ったある日、
椿は私を、縁側の隅へ呼び出した。
『 例の計画、今晩やるわ。
私があいつを、できるだけここに引きつけておく。
その隙に、あんたは―― 』
彼女は、お父様が亡くなった事故に
当主が関わっていると考えていた。
椿はどうにかして、自白を引き出す。
そして私は、当主の書斎から、
亡きお母さまの日記を持ち出す――
椿にとっては、自由を取り戻すため。
私にとっては、
旅館を奪われたことへの仕返しのため。
柄にもなく、昂揚していた。
まるで、無邪気な子供が悪戯を企むように。
このことが、
本当の意味で自分の人生を崩壊させるとも知らずに――

夜も更け、他の女中たちが引き払い、
警備の黒服も気を緩める頃。
私は人目を避け、書斎へ潜り込んだ。
スパイ気分に、胸が高鳴る。
重厚な本棚から、目当ての日記を探した。
狙いは、喜一さまの事故があった頃。
何冊かを順に開いて――
(×月×日。
ミキさんから言伝があった。
翌週の代議士主催のパーティーには、
決して同行しないように。
自分のことでも、娘のことでも、
体調を理由にすればいい。
とにかく、絶対に車には同乗しないでほしい――と。
問いただしたら、
康三の指示だという……)
見つけた――本当にあった!
信じられない。
よく、こんなものを処分せずに残して――
はっと我に返る。
長居は危険だ。
私は日記を手に、書斎を後にした。

『 やったじゃない!
ハル、これで勝てるわ!
あいつを追い落とせたら、
あんたにもたっぷりお礼するから―― 』
そう言うと椿は、
私に差し出した。
『 何、変な顔してんのよ!
あたしはここから出られないんだから、
あんたがこれを使って、告発でも、公表でも!
――ねえ、大丈夫? 』
胸に抱いたカバンが、ずっしりと重い。
事態の重大さに、ようやく気がついた。
でも、やらなきゃ。
これは私にしかできない、大事なこと――
村崎家の力は大きい。
メディアにも、警察にも、
きっと協力者がいる。

翌日、私は銀行へ駆け込んだ。
このカバンを持ち歩くのは危ない。
貸金庫を契約し、カバンごと預けておく。
そのうえで、
私にはひとつ考えがあった。

《さえき屋》の常連だった、新聞記者さん。
彼はいつも、
村崎が主導する強引な再開発に批判的だった。
きっと信用できる。
父に尋ねて、連絡先を手に入れた。
すぐには繋がらなかったけれど、
その夜、彼から折り返しがあった。
村崎家について、重要な話がある。
会って話したい――そう伝えると、
彼は色めき立って、
内密に会える場所を指定してきた。
支倉郷駅の裏手にある、
倉庫街で、と。
電車に乗って、すぐに向かおう。
――本当に大丈夫かな。

不安になった私は、
能天気な声が聞きたくなって、
マサキくんに電話をかけた。
『 おっ……ハルさん、どうしたの?
遊びのお誘い? 』
電話に出た彼は、珍しく声を抑えていた。
『 ううん。
ちょっと、声が聞きたくなって 』
『 そっか。どしたの?
声、震えてない?
すぐ行ってあげたいんだけどさ、
先輩に野暮用を押し付けられてて 』
ごめん、と彼は謝った。
『 いいの。気にしないで。
また電話するね 』
なんとなく、
いつもと違う彼の様子が気になって、
かえって落ち着かなかった。
車内で電話なんて。
普段だったら、絶対しないのに――
支倉郷駅に着いて、駅裏へと足を向ける。
しっかりしなきゃ。

夜の倉庫街は、
照明のおかげで暗くはなかったけれど、
人影が少なく、独特の緊張感が漂っていた。
指定された場所を目指して進む。
その時、
携帯からメールの着信音が鳴った。
足を止めて、画面を開く。
相手は、妙子さんだった。
(お休みのところ、連絡してごめんなさい。
昨夜、母屋にいらっしゃった?
貴女を見かけたという人がいて。
書斎に誰か入ったらしいのだけど、
何かご存じだったら、教えてください)
――そんな。
誰にも見られなかったはずなのに……!
私のしたことがバレたら――
頭が真っ白になる。
でも、行かなきゃ。
やり遂げれば、きっと何とかなる。
進むしかないんだ。
約束の場所へ着き、周囲を見回す。
記者さんは――いない。
奥にいるのかな……

その倉庫はシャッターが開いていて、
中から明かりが漏れていた。
さらに一歩、近づく。
そして、私は“それ”を見てしまった。

鉄錆の匂い。
赤い、赤い――
血溜まりの中に、
男の人が倒れている。
そして。
こちらを見て笑う〝少年〟の頬は、
鮮やかな返り血に濡れていた。
『 あれえ……ハルさん。
奇遇っていうか――なんで? 』
マサキ――くん?
私は叫んだ。
そして、
弾かれたように走り出した。

殺される。
殺される――!
いやだ。
あんな……
あんなふうに死にたくない!
私は――
足がもつれて、
サンダルが脱げ落ちても、
裸足のまま、
駅まで駆け抜けた。
携帯を投げ捨て、
そのまま電車に飛び乗った。
きっと、ひどい姿だったと思う。
顔は真っ青で、
服は乱れ、足は傷だらけ。
辿り着いた終点は、知らない街だった。
駆け込んだホテルに引きこもった。
それから、数週間。
ついに手持ちのお金が尽きて、
私は夜の店で働き始めた。

遠く離れた街にいても、
黒いスーツの男性を見るたび、身体が震えた。
椿から預かった証拠を取り戻すため、
村崎家はきっと、私を探している。
お客さんや同僚。
私の事情を察した人たちが、
逃げ方や身の隠し方を、色々と教えてくれた。
できる限り偽名を使い、
定期的に住処を変えた。

そんな生活の中で、
お客さんと深い関係になることもあった。
金持ちの男に囲われ、
妻帯者とは知らず、
不倫トラブルに巻き込まれたこともある。
必死に生きて、逃げ続けて。
――数年後。
私は、ある男性に求められ、
断り切れずに結婚した。
故郷から遠く離れた、
四国の街で。

そして、娘が生まれた。
子供を持つなんて、
考えたこともなかったけれど。
私によく似た赤ちゃんを抱いて、
穏やかな幸せを感じていた。
夫に頼んで、名前は私が付けた。
――桜子。
ずっと、
椿への罪悪感を抱えていた。
春に生まれたこの子に、
彼女と同じ、花の名前を。
勝手なこだわりだけど。
それでも、
決して忘れないように。
私は、結婚生活を
長く続けるつもりはなかった。
ここに留まれば、
いつか迷惑をかけるかもしれない。
数年後。
彼と離婚して、
さらに遠く、西へ。
何も知らないこの子を連れて。

桜の舞い散る、入学式。
体調を崩す日が増えていたけれど、
今日は出席できてよかった。
桜子が、無邪気に笑っている。
その姿を見るたび、
愛おしさと同時に、胸が締めつけられる。
この子には、
苦労ばかりさせてしまった。
長く続いた逃避の日々。
それも、もうすぐ終わる。
そんな予感がしていた。
両親は、元気にしているかな。
椿は――?
馬鹿で、臆病で。
本当に、ごめんね。
桜子。
ああ――どうか、この子だけでも。
大切な人たちに囲まれて、
幸せに生きていけますように。
