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確認状態は、このブラウザを閉じるまで保持されます。EPISODE 33ダンス・イン・ザ・ウォーター
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閑静な秋の夜。
鈴虫の音に交じって、
ヒステリックな母の声が響く。

私にとっては、日常の一幕に過ぎない。
悪酔いしている時、
母はいつも私を罵った。
大人しく座って耐える。
その甲高い声が、
腫れた頬に響いて痛んだ。

少しでも笑えば、馬鹿にするなと怒る。
澄ましていれば、気味が悪いと怒る。
理由なんて何でもいいんだ。
ひどく取り乱して、
よくわからないことを口にすることもあった。
『父を康三に殺された』
『女中に裏切られた』
『お前は康三の子だ』
『亨を朝霞に奪われた』
そんな、あるはずもない話を。
私は、母の話をまったく信じていなかった。
でたらめな人が、
でたらめなことを言っているだけ。
そう思っていた。

あの頃、私はひと月に一度か二度、
当主さまのお部屋に招かれていた。
豪華な当主さまのお部屋には、
いつも新しくて素敵なおもちゃが用意されていた。
当主さまは優しくて、
好きなように遊ばせてくれるので、
私はこの時間をとても楽しみにしていた。
それに、
当主さまはいつも私を褒めてくれた。

作法が身についている。
学校の成績も素晴らしい。
ずっと、いい子でいることに必死だったから、
それを認めてもらえることが、
素直に嬉しかった。

村崎の本家では、
年に一度、賑やかな会合が開かれていた。
地元の偉い人、取引先の会社の人、
自社グループの重役、それに分家の人たちが集まる。
だけど一度も、
母や私が呼ばれることはなかった。
かしこまった服装の大人たちを、
私はいつも遠くから眺めていた。
私と歳の近い子も、何人かいたけれど、
男の子には、特に興味がなかった。
そしてその日、
ひとりの女の子を見かけた。

静音ちゃん。
別邸で暮らす朝霞さまの娘さんで、
私よりひとつ下の、小学校二年生。
話したことはなかったけど、
彼女のことは、うわさで知っていた。
赤いリボンで髪を二つにまとめたその子は、
大きな瞳をぱちぱちさせながら、
道の真ん中を歩いていた。
たくさんの大人に見守られながら。
やがて、みんなが屋敷の中へ消えていって、
広間から楽しげな笑い声が響いてきた。
静音ちゃんは本を抱えて廊下を駆けていくと、
縁側に腰を下ろし、
それを読み始めた。

その姿を見て、
私の心はひどくざわついた。
つい、悪戯したくなって、
彼女のもとへ足を向けた。
曲がり角に身を隠しながら、
そっと彼女の背後へ近づく。
そして後ろに立つと、
私はうやうやしく頭を下げた。

『 ――ごきげんよう。
はじめまして、静音さま 』
スカートの裾をつまみ、
首をかしげながら、
私は彼女を見下ろした。

『 椎さん、こんにちは。
はじめまして 』
――!
かしこまった私に驚いて、
大人に助けを求める姿を予想していた。
大切に育てられた女の子らしく、
怯えてくれるものだと思っていた。
だけど彼女は、少しもそんな様子を見せず、
事もなげに私の名前を呼び、挨拶を返した。

『 椎さん、どうしたの? 』
――何をしているんだろう。
こんな小さな子を相手に。
私は、なんて浅ましいんだ。
それに、
私の名前をどこで知ったの?
恥ずかしさと情けなさ、
そして意表を突かれた驚きで、
私はすっかり混乱してしまった。
そして、彼女の呼びかけにも応じず、
その場から逃げ出した。
これが、
静音ちゃんと初めて交わした会話だった。
***
時は流れて、
私は中学生になった。

この頃、母は酒をやめて、
向精神薬を服用するようになっていた。
状態が落ち着いたとは言えなかったが、
怒りを露わにすることは減り、
代わりに、媚びるような笑みを浮かべることが増えた。

周囲の大人たちがひそひそと交わすうわさ話や、
振る舞いの裏にある事情を、
少しずつ理解できるようになって、
私はに、
真実味を感じ始めていた。
そして私は、招かれずとも、
自ら当主の居室を訪ねるようになった。

彼は変わらず、
私を優しく受け入れてくれた。
何故か。
――答え合わせ。
私は、それを確かめる必要があると思っていた。
当主自身の口から真実を聞かされるのは、
まだ先のことだ。
そんなある日、
当主から初めて頼みごとをされた。

それは、亨のことだった。
同じ中学に通う、一歳年上の、
村崎家の跡継ぎ。
彼は以前から問題児で、
素行の悪さは周囲にも知られていた。
中学二年生になってからは、
その非行もさらにエスカレートしているらしい。
そんな彼が落ち着くまで、
傍で見守ってやってくれないか――
とのことだった。
――それは、私が妹だから?
気は進まなかったが、
断ることもできない。
私はにこやかに微笑んで、頷いた。
外面を取り繕うことばかり、
うまくなっていく。

私は毎朝、別邸を訪ね、
学校の内外で亨と過ごすようになった。
この頃、何を話していたのかは、
よく覚えていない。
亨は何かにつけて、
椿の乱れた生活ぶりや、
私が父親の知れない子供であることを嘲った。
好感など、
持てるはずもない。

その非行は、数えきれないほどだった。
傍にいれば、
嫌でも目にすることになる。
何不自由ない暮らしに、
村崎家の跡継ぎという立場。
それなのに、
なぜそこまで荒れているのか。
私には理解できなかった。
ただ、そのヒステリックな振る舞いを見て、
密かに思ったものだ。
――確かに、椿に似ている。

彼は非常に暴力的で、
容赦というものがなかった。
気に入らない相手には、
徒党を組んで〝いじめ〟を行う。
校内に〝敵〟の恋人や姉妹がいれば、
拉致して、
本人の前で暴行することすらあった。
目を覆いたくなるような惨状。
それでも、
私には何もできなかった。

あの悲鳴や怨嗟の声は、
今も耳に残っている。
そして、これだけのことをしても、
彼が罰を受けることはなかった。
狡猾な口封じと、暴力による脅迫。
告発されることがあっても、
結局はうやむやになる。
村崎家の力が、
裏で働いていたのだろう。
そんな嫌悪と無力感に塗れた日々を過ごし、
やがて翌年。
私は中学二年生になった。
亨は相変わらず、
暴力と放蕩の日々を送っていた。
その悪名は校内に留まらず、
校外まで及び、
高校生にさえ恐れられていた。
そんなある日。

亨が手下たちと空き教室でたむろしていた時、
彼は私に命令した。
――売女の娘。
俺の膝に跨って奉仕しろ、と。
その言葉に応じるように、
手下どもの下卑た笑い声が響いた。
優等生だった私を、
ことさら辱めたかったのだろう。
親戚の――
それどころか、兄かもしれない男に?
冗談じゃない。
普段は従順に振る舞っていた私も、
こればかりは拒んだ。
だが、
亨が聞き入れるはずもない。

彼は無理やり私を抱き寄せ、
手下たちに笑ってみせた。
取り乱してはいけない。
態度だけは、平静に。
泣いて嫌がりでもしたら、
こいつの思い通りだ――
亨は耳元で何かを囁いたが、
鼓動と震えを抑えるのに必死で、
聞き取れなかった。
衣服を乱され、肌をさらされた。
にやついた亨に、
執拗に身体を触れられながら耐える。

私の姿を間近で見ようと、
手下の男たちが取り囲む。
卑猥な仕草で、
囃し立てる奴もいた。
ああ、私は、
きっとこのまま――
恥辱に耐えながら、
諦めかけた、その時。
下卑た歓声に交じって、
ひとりの男が声をあげた。
『 亨さん、終わったら次は俺に回してくれよ! 』
その瞬間、
亨の動きがぴたりと止まった。

彼は私を突き飛ばし、
その手下に躍りかかる。
勢いのまま押し倒し、
何度も殴りつけた。
驚く者、止める者、笑う者。
場は一瞬にして騒然となった。
何が彼を逆上させたのか、
私にはわからない。
混乱したまま衣服を整え、
急いでその場を離れた。

私は、もう限界だった。
あんな男を制御することなど、
できるはずがない。
酷い寒気と憎悪に支配されながら、
同時に、ひとつの確信があった。
軽蔑すべき下衆。
壊れ果てた、身勝手な椿。
それらを私に押し付けた、
元凶たる当主。
何もない。
何も失っていない。
価値あるものなんて、最初からなかった。

その夜、
亨は私の寝室へ押し入った。
そして、気の済むまで私を蹂躙した。
欲しかった?
売女の娘の純潔が。
売女の息子が、
妹を汚していた。
事が済んでも、
私は何も言わなかった。
いつか真実を知って、
その身を焼かれればいい。
おぞましい兄妹の関係は、
それからもしばらく続いた。
そして、亨は高校に進学した。

奇妙なことに、その頃には、
彼の素行も少しずつ落ち着きを見せていた。
年齢なりに成長したのか。
悪行に飽きたのか。
それとも、
私という供物が効いたのか。
私も中学三年生になり、
学校が違うことで、
彼と顔を合わせる機会は少なくなった。
私の部屋へ押しかけてくることも、
次第に減っていった。
多少の安堵。
それでも消えない、猜疑心。
しかし、初夏を迎えた頃、
状況は急変する。
亨は高校で、
ある生徒に重傷を負わせる事件を起こした。
村崎家はこの事件も、
当然のように隠蔽。
そして、さらに暴走した彼は、一線を越えた。

同居していた
〝妹〟の静音ちゃんに対する暴行未遂。
寸前のところで巧さんが気づき、
最悪の事態は免れたようだが――
事件のショックで、
彼女は声を失った。
小学生の頃に交わした、
つたないやり取りを思い出す。
あれからは、
ほとんど関わっていなかったけれど。
かわいそうに。
この件で、当主は激怒した。
支社での背任が明らかになっていた
婿養子で〝父親〟の巧さんとともに、
亨は別邸から放逐され、
まもなく、
朝霞さんと巧さんは離縁させられた。
跡継ぎの座にあった亨も、
事実上の勘当となった。
――それから、数か月後。

住川亨少年、
繁華街で起こした傷害事件で逮捕。
事件の背景には、
他の非行少年グループとの
金銭をめぐるトラブルがあったとみられる。
さらに、多数の余罪が疑われることや、
反抗的な態度などから、
長期の更生施設への送致が
妥当と判断された――
新聞の記事には、
そう書かれていた。

亨から解放された私に、
当主から下された次の任務は、
傷ついた静音ちゃんの世話だった。
私はまた、笑顔で頷いた。
当主からの信頼は感じていた。
同時に、
主従的な役割を与えることで、
私を牽制しているようにも思えた。
私が真実を知れば、
実の娘でありながら、
潜在的な敵にもなり得る――
そう考えているのだろう。
私はその役目を引き受けたうえで、
別邸に住み込む許可を願った。
静音ちゃんと、
身体の弱い朝霞さんに尽くすには、
通いでは難しい――と理由をつけて。
本家を、
母のもとを離れられるなら、
どんな役割でも、私は歓迎だった。
それからの別邸での暮らしは、
多忙を極めた。
中学校に通いながら、
家事に、広い別邸の管理、
そして静音ちゃんのケア。
毎日が慌ただしく過ぎていった。
それでも、
これまでの人生に比べれば、
ずっと幸福だった。
朝霞さまも、
私のことを慮ってくれた。
高校には進学せず、
家事に専念すると伝えると、
朝霞さまは強く反対した。
それでも譲らない私に、
やがて彼女は諦めて、
悲しげに微笑んだ。

それ以来、私はメイド服を纏っている。
静音ちゃんも少しずつ心を開いてくれて、
時折、食後に書いてくれる手紙が、
密かな楽しみになった。
何もない、
最初から多くを奪われていた人生。
別邸に来て、
はじめて、
大切と言えるものを得た気がした。
僭越ながら――
温かな、家族というものを。
